昨日、私は奈良県宇陀郡大宇陀町というところで生まれたと言いました。本日は実家のある大宇陀についてお話ししましょう。
ここは旧町名を松山と言います(通称宇陀松山、以下「宇陀松山」とします)。昔、松山城というお城があったところで、私の家はその城下町の旧市街中のど真ん中あたりにあります。ちなみに江戸時代、松山城は織田家の支配下にありました。私の知る限り、圧政を行ったとか、そういう話は一切聞いたことがありません。この辺りは全く詳しくないのですが、奈良県の多くが天領(幕府直轄の地)だったからかもしれません。奈良県で藩や藩主を悪くいう人を聞いたことがないので、全体的に幕府との関係は悪くなかったのかもしれませんね。このあたりは正直、わからないところです。
さて、奈良と言えば皆さんは何をイメージされるでしょうか。やはり大仏か鹿ではないでしょうか。それは仕方がないことで、やはり奈良の主たる観光地が、東大寺、興福寺、春日大社あたりであるからです。いわゆる奈良公園ですね。奈良公園の次に有名なのは吉野の桜や、飛鳥の古墳などでしょうか。
奈良県全体ではそのようなイメージがありますね。それは皆さん共通していると思いますし、真実でもあります。別に払拭すべきものでもないと思います。ですが、当然のことながら、個々の町にはそれぞれの顔があります。では、私の町、宇陀松山には何があるでしょうか。大きくは二つの特徴があると言えましょう。
一つは、「かぎろい」です。これは『万葉集』で柿本人麿が「ひんがしの野にかぎろいの立つ見えて返り見すれば月かたぶきぬ」という歌を詠んだことに由来します。厳冬の頃、宇陀松山の「かぎろいの丘」からは、遠くの山際に、まるで炎のように真っ赤に燃え上がった朝焼けが見えるのですが、これを「かぎろい」と言います。この「かぎろい」を見るイベントがあります。旧暦の12月31日(これは歌人の佐佐木信綱が制定したものです)に「かぎろいを観る会」というのが行われていて、北海道あたりからわざわざ見に来られる人もいるくらいです。これは宇陀松山から見るのが一番いいとされてきました。ですが、何せ厳冬の早朝ですから、とにかく寒い!!!それもその日の天気次第では見られない年もあるわけです。運のいい人だけ見られるのかもしれません。そんなイベントでした。
もう一つは、吉野葛などの薬草です。宇陀松山では元々吉野葛の生産が盛んでしたし(『日本書紀』にも関連記事があります)、今も盛んに行われています。その下地があったせいでしょう。享保年間には「森野旧薬園」という薬草園が開かれます。これは東京の「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園と言われています。こうしたこともあり、この城下町一帯では薬業が盛んに行われました。今は大きな製薬会社になっているところも、元は宇陀松山の小さな商店から出発したところも少なくありません。私も一時、薬科大学に行こうかと思ったくらい、薬業が身近にありました。最近はその文化を伝える「宇陀市歴史文化館 薬の館」などがオープンして、さまざまな展示を行っています。
こうした自然豊かな町で育ったせいか、小さい頃はとてものんびりした性格の子だったと思います。こうしたことも、日本文化に違和感なく親しめた原因だったのかもしれないと、最近は思っております。
前回もお話と合わせて考えると、かなり「文化的」な環境で育ったことがわかっていただけると思います。
ここまで読まれた方は、私という人間は、かなり恵まれた環境で育った人間だとお思いかもしれません。確かに「文化的資本」には恵まれていました。それは間違いありません。
ただ、私の人生を現時点で振り返ると、かなり紆余曲折と波乱に満ち、いろんなことに苦しでもきた人生だったような気も致します。
次回はその一端をお伝えしたいと思います。
4件の返信
どんなに恵まれた環境に育ちましても人間として生まれてきますと試練は有りますね。
ある人は親との死別。病気。怪我等々。
これらはどうする事も出来ないんですが、その与えられた人生の中で運命と神仏の慈悲とお恵みと自分の努力で自分自身の人生を切り開いていくから人間なのでしょうか〜
確かにそうですね!!!
なかなか試練は避けて通れませんね。
私もそれを実感しているところです😀
「かぎろい」と薬草の町でお育ちになったのですね。なんとも風流ですね。宇陀松山については全く存じませんでした。奈良についても先生がここでおっしゃるようなイメージしかありませんでしたが、もっと知りたくなりました。ありがとうございました😊それにしても「かぎろい」をぜひ一度この目で見てみたい!
先生の紆余曲折と波乱に満ちた人生のお話、この続きに興味津々です❣️
ぜひ見にきてください!!!
お待ちしております😀
毎年必ず見られるものではない点だけが、心配ですが・・・
これからもよろしくお願いいたします🙇