生家と日本文化

今回は、小さい頃のお話をしようと思います。私は1969年1月22日に奈良県宇陀郡大宇陀町で生まれました(現在は宇陀市大宇陀)。
生家は呉服屋で、私で5代目になります。その長男として生まれ、家を継ぐことを唯一の使命として育てられてきました。生まれた頃はお手伝いさんを含め、家族が30名ほどいた記憶があり、私も主にお手伝いさんに育てられました。
これだけではなく、現在では考えられないような環境で育ちましたので、その一端を以下、お伝えしていきたいと思います。

家の敷地面積は約400坪(約1400平方メートル)で、そこの中にわざとたくさんの貸家をつくります。なぜかと言いますと、一つはお手伝いさんに住んでもらうため。もう一つは、学校の先生やお医者さんに住んでもらうためです。後者がなぜいいかというと、学校のような、あるいは町のようなものが、家の敷地中にできるからです。安価でそういう教養のある人に住んでもらえば、いつも勉強を教えてもらえたり、体を診てもらったりできるのです。小さい頃から絵の先生や算数の先生、社会や国語の先生などが住んでいましたし、内科のお医者さんも住んでいました。ですからその人たちからいろんなことを学びました。具体的には、俳句や短歌、茶の湯、謡、詩吟、書道、そろばんなどを教えてもらった記憶があります。

その中でも特に俳句は面白かったです。自然をよく観察しないとくだらない表面的な句になるからです。逆によく観察して物事の本質を捉えることができれば、自然といい句ができます。物事の成り立ちや、性質などをよく観察する習慣が私の中にできたのは、こうした「俳句の眼」を持つことができたからだ、と勝手に思っております。

茶の湯は母が裏千家の茶の湯をしていたので(私はのちに遠州流の茶を習うことになります)、そこで茶の湯の手前や作法などを一通り教えてもらいました。一番よかったと思うのは、掛け軸や茶道具などの美術品の見方がわかったことと、花や植物の名前を覚えることができたことです。難しい書や禅語も小さいなりに理解できるようになりましたし、何よりもそうしたものに抵抗なく接することができるようになりました。

ただ、どれもプロにはなれませんでした。ですが、こうした教育方法によって、今の私は日本研究を行うのにそれほど苦労しなくても大体の雰囲気などが理解できるようになったと思います。私にとって最も大きな財産です。

日本文化研究者としての「文化資本」を知らないうちに身につけることができていたのですから。

奈良という土地も日本研究者に有利に働いていたのかもしれません。それについてはまた次回お話いたします。

6件の返信

  1. Lobelia より:

    続きを楽しみにしております😊❣️

  2. Lobelia より:

    大変恵まれた、素晴らしい環境でお育ちになったのですね!😊羨ましい限りです。
    次回も楽しみにしております❤️

  3. 須美ちゃん より:

    もっと読みたいです

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