さて、今度はなぜ、そしていつ頃、日本で「痴漢」という語の意味が変わったのかという問題について書きたいと思います。つまり、元々は「愚かな男」や「馬鹿な男」しか意味していなかった「痴漢」が、なぜ、いつ頃、「女性に淫らな行為をする男」へと変化して行ったのかを調べてみます。
前に見た『日本国語大辞典』では、もっとも早い例として1959年に発表された三浦朱門の「セルロイドの塔」という小説が紹介されています。そこには「よく週刊誌に中年の痴漢の話が出ているが」という表現が出てきます。この小説は芥川賞も受賞したので、ある程度よく読まれたものと思われます。
この辞書に従うと、第二次世界大戦後に意味の変化があったことになります。なるほど、戦前と戦後ではその価値観などが大きく変容しました。ですから言葉の意味が大きく変わったと考えるのも自然なことかもしれません。
ですが、果たしてそうなのでしょうか。言葉の意味は定着するまでに、ある程度長い時間がかかります。ですから、「セルロイドの塔」のように「痴漢」が説明なしに違った意味で突然使われることは絶対にありません。文章の意味が変わってしまいますし、作者の意図するところが伝わらないからです。もっと以前から使われていないと「女性に淫らな行為をする男」という意味での使用はできないはずなのです。
そこで「新聞データベース」を使ってまず「痴漢」の用例を調べました。そうすると、1890年代から徐々に意味変容が起こってきたことが、まずわかりました。その時はかなり猟奇的な殺人なども含んでいました。
新聞では、女性に危害を加える男をスキャンダラスに強調して述べる時に使われるようになって行ったのです。当時の新聞は今とは比べ物にならないくらい大きな影響力を持っていました。
ここで決定的な事件が起こります。いわゆる「出歯亀事件」です。1908年3月22日。風呂上がりの既婚女性を見て欲情した男(あだ名が「出歯亀」)がその女性に悪戯をし、最終的には殺してしまったのです。この事件を新聞はこぞって書き立てました。ちなみに、この事件がかなり衝撃的だったために、欲望のままに生きる「デバガメイズム(出歯亀主義)」という言葉さえ生み出しました。それだけ当時の人々に大きなインパクトを与えた事件だったのです。この犯人がまさに「痴漢」の代名詞のように言われたのです。
こうして「痴漢」は女性への犯罪へと、どんどんバイアスがかかって行きます。決定的だったのが、大正から昭和初期に大量生産された「探偵小説」、つまり今でいう「推理小説」でした。これらは「大衆小説」というジャンルに属することからもわかるように、多くの大衆読者を獲得しました。この小説の中には「痴漢」という言葉がたくさん出てきます。特に海野十三(うんの・じゅうざ)という作家は、「痴漢」という語を好んで用いました。もちろん「女性に危害を与える男」として。
こうした経緯から、1930年代にはほぼ元来の意味は消え伏せ、新しい意味に完全にシフトしてしまいました。最初は下手をすると命に関わるような、女性に対する犯罪だったわけです。
それが主に電車の中での痴漢行為、つまり我々が今使っているような意味に変わるのは、週刊誌の存在が大きいと思います。それこそ戦後、週刊誌ブームがありました。それが1950年代。まさに「セルロイドの塔」が書かれた時代です。週刊誌は、電車の中で起こる女性に対するハラスメントのことを、一昔前の猟奇的な殺人までいかないが、「女性に淫らな行為をする」厄介な存在を、「痴漢」と呼び変えて、それを面白ろおかしく掻き立てたのです。この段階において、「痴漢」が今の意味としてより広い層に定着して行ったのでした。
以上のことをまとめると、新聞のような大衆向けメディア、海野十三のような大衆小説、そして週刊誌などの一般大衆向け雑誌の広まりによって、「痴漢」という言葉の意味変容と定着が起こったのでした。今の意味の「痴漢」はまさに「大衆文化」の鬼子だったわけです。
思い返せば江戸時代の江戸での大衆化が中国語だった「痴漢」を広めました。次の大きな大衆化が起こった時代は、次に「痴漢」の意味変容を起こしたのです。言葉の変化の一つの要素に「大衆化」があることは間違いないと思われます。
ところで、日本は時に諸外国から「痴漢天国」、または「痴漢大国」と言われてきましたし、今も間々言われることがあり、ネット上で議論されることもあるような状態です。
それは一体いつから始まったことなのでしょう。そしてその理由は?
次回はその辺りについて書きたいと思います。
今日も読んでくださってありがとうございました。
2件の返信
大変興味深く読ませていただきました😊
「痴漢」という言葉の意味変容と定着につき、とてもよく理解できました。
今のネットの時代も「大衆化」により意味変容を起こしている言葉が多いのでしょうね。「やばい」はいかがでしょうか?昔は「試験のカンニングが見つかったらやばい」のような意味しかありませんでしたが、若い人は美味しいものを食べて感動したときに「やばい!」というようです。
次回の、日本が「痴漢天国」や「痴漢大国」と言われるようになった経緯と理由についてのお話も、楽しみにしております。😊
コメントありがとうございます。
確かに「やばい」もそうですね。若者が使うことで変化していくのかもしれませんね。「大衆化」を担っているのは、若者が関与している可能性が大いにありますね。
タメになるコメント、ありがとうございました!!!
次回、「痴漢天国」や「痴漢大国」について書こうと思っていますので、また読んでいただけるとありがたいです。
引き続きよろしくお願いいたします。